「旅行放題」:失われた旅行の真髄

 

私は旅行会社を経営しているご両親の子であるおかげで、幼い頃から世界に旅行することができた。ご両親に対して本当に心から感謝している。

しかし、振り返ってみると自分はただ大人しく両親を従った無知な子犬のようだった。目の前には景色が通り去っていて、訪れた場所はあまり印象を残らなかった。色あせた古い写真のように、私の記憶は現実より夢に近いものだった。

 

 

私が一人で海外に過ごす時点で、初めて自主旅行の刺激を味わうことができた。

 

他人が決められた時間に制限されていない自由を初めて知った。自分の感情に合わせて行動する快感を初めて知った。目的地も、そこにたどり着くまでの旅も、自分で決められる興奮を初めて知った。

 

 

「旅行する」という意味を初めて理解することができた。

 

今までいろんな所に行っても、周囲とつながりを感じられなかった。現在の旅行業界では「旅行放題」という傾向があり、食べ放題と同じように、量に重視するために品質を犠牲にする。

 

 

「旅行」は昔とは違って、誰でも簡単で便利に行けるようになった。

その結果、貴重な「旅行」が商品化された。

 

旅行は「異文化を体験しながら楽しむこと」というものから離れていた上、「仲間同士の間に、誰が一番多い国に行ったのか」という競争になっているじゃないか。

 

目的地にたどり着いた瞬間、最初の行動は写真や自撮りを取ること。ホテルに着いた瞬間、最初の行動はホテルのWI-FIパスワードを聞くこと。WI-FIに繋がった瞬間、最初の行動はSNSに写真を載せること。

 

 

旅行+SNS=社会的承認

 

 

この自然な承認欲求は、最短の時間で最も多くの観光名所に行けると自慢する旅行会社にとって、素晴らしい市場となる。

 

一日にできるだけ多くの場所に行く観光マラソン。

 

お金と時間を最大限に活用すること。

 

 

しかし、旅行の真髄が失われている。

 

私たちは、観光というのは単なる「見る」ことを思い込んで、他の五感も同様に重要であることを無視しているのではないか。

 

私たちは好きなだけ「見る」ことができますが、全ての五感を刺激することこそが、これらの体験を記憶に刻み込むために必要なのだ。

 

新しい場所で五感を働くのはその場所と繋ぐ必要がある。そして新しい場所と繋ぐためには、時間が必要である。

 

私たちは今、多ければ多いほど、少なくなってしまう時代に住んでいる。

 

観光地の数を優先することで、旅行の記憶は、最終的にお互いを上書いてしまう。

 

記憶に残ってないので、どこかに行った証拠はインスタの「いいね」でお世辞となっていた写真だけが残っている。

 

 

だったら旅行の意味は何でしょう?

 

結局忘れてしまうのなら、そんなにお金をかけて海外に行く意味はあるのか?

 

数えきれない写真や「いいね」って本当にそんなに大事でしょうか?

 

無論、全員がこのような旅行をしていることではない。

 

潮のように行き去るツアーバスを眺めると、ちょっとだけ虚しく感じる。

 

 

パッケージツアーというのは、交通から食事、宿泊まで全てを提供し、旅行中のストレスを取り除くための商品です。

 

私だって、わけわからない言語に囲まれていながら、馴染みのない地下鉄を乗ろうとすることから非常にストレスになる。私だって、ただ数百円を節約したいために15キロのバックパックを背負って2時間以上歩いたことを非常に疲れて悔しく感じる。私だって、この先なにがあるのが分からないまま新しい場所に移すことに対して不安を感じる。

 

しかし、この緊張、疲労、ストレスがあるからこそ、これらの体験が価値のある思い出を残す。人生は山あり谷ありで充実に感じると同じように、旅行は困難に直面することこそが、他の幸せな瞬間をより意味深いもの印象を残す。

 

パッケージツアーの成功は、「安心感」であれば、旅行の真髄は「不安感」にある。

 

旅行中に五感を研ぎ澄して、忘れられない体験を人生に埋め込むのが、未知から生み出すこの不安である。

 

そして、それは「旅行放題」で決して見つけられないものだろう。



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